島根県松江市の曹洞宗金華山洞光寺。永代供養、墓地分譲などお気軽にご相談下さい。

 

沿革

 

洞光寺の沿革

洞光寺の沿革
 
 この洞光寺は元々、広瀬の富田月山城の下、新宮村金尾の地にあったと伝えられる。  時はまさに今から約五百数十年前の戦国時代。その戦国大名の一人、「毛利元就」の好敵手、尼子家を開基とするお寺がこの洞光寺である。尼子家の祖先はその當時、近江国(今の滋賀県)犬上郡甲良荘尼子郷の地を分与された京極高久で、尼子の名は、この地に由来し、この高久の次男、持久が出雲守護代として富田城に入り、出雲尼子の祖といわれる。
  それから七十年後、京都を戦乱の巷にする「応仁の乱」が勃発し、尼子清定は勢力を拡大し、京極氏の元に預けられていた息子の経久の時代には、永正十五年(一五一八)、飯石郡の赤穴氏を屈服させてほぼその出雲平定は完了し、近隣の備後、伯備、安芸、石見にも支配領域を拡大し、最盛期には隠岐、因幡、備中、備前、美作、播磨の国人までもよしみを通 じていた。   この経久も一度は城を追われ、文明十八年(一四八六)正月元旦奇策を用いて富田城を奪回したが、その潜伏中に伯州、今の倉吉の定光寺住職、大拙真雄禅師のもとに参禅し、深く帰依した。
その後、城を取り戻し、亡き父の志を継ぎ、金尾の地に新しく一宇を建立し、さきの大拙真雄禅師を請して、亡父清定の冥福を祈り、寺号を金華山洞光寺と称して尼子氏の菩提寺とした。経久の孫晴久の頃には領内の曹洞宗の僧録(禅院の僧事を統括する僧職)であったという。
 永禄九年(一五六六)富田城落城し、その後毛利元就は寺領百貫文余を寄進し、代々厚く當寺を外護した。天下分け目の関ヶ原の戦い、の年 慶長五年(一六○○)に堀尾吉晴が富田城に入り、松江移城(慶長十二年、一六○七着工、十六年完成)に伴い、慶長十三年、一六○八の秋、當寺七世嶺頭正碩和尚の時伽藍を松江に移転した。
 松江に城が移って以後、寛永年中松平直政公入国以来、寺領を寄進されている。下って文化十四年一月十八日(一八一七)不測の炎に罹り焼失し、弘化二年(一八四五)當寺二十四世中興佛州観教和尚の代に再建し、現在に至っている。
  境内には薬師堂がある。本堂の本尊様はお釈迦様だが、洞光寺の起こりは実はここに納まっていた薬師如来さまである。
二寸五分ほどの小さい尊蔵で閻浮檀金で出来たものである。閻浮とは樹木の名で、閻浮檀金とは閻浮樹林中を流れる河より採れる金のことである。
 その昔、保元年中(一一五六~一一五八)平の勇将、悪七郎兵衛景清が、富田城を築いた時眼病に苦しんだことがあり、この薬師さまをまつって祈ったところ、忽ち眼病が治ったそうである。それ以来、本尊として城中の一角に安置して祀った。その後、尼子経久が城に入り、経久が病気に悩んだときこのお薬師さまに祈願を込めたところ、奇異の霊夢により全快したという。その後また霊夢あり、「我を平生みだりに拝してはいけない。深く秘蔵せよ。」とのお告げがあり、四寸五分の尊蔵を刻み、その胎内佛として境内金尾という所に堂宇を建立して安置し、堀尾氏松江築城の折、洞光寺と共に境内に移し、現在の建物は、現住の祖父・三十七世 絶巖獨照和尚のとき、昭和十一年に隣の坐禅堂と共に再建している。
 現住職は三十九世で、出雲部一帯には二十四ヶ寺の末寺を有している。
 
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